地域だけではない、大学だけでもない、持続可能な成長をし続けるための総合診療ニューラルネットワーク

NEURAL GP network 島根県発・総合診療医養成プロジェクト

和足孝之先生【世界を結ぶNERURAL GP network】

Part 1

●医学部までの経緯

 もともと、教育学部に2年、理学部生物学科に2年、さらに自然科学研究科で分子生理学を学んでいました。当時の研究室の恩師の推薦と支援を受けて岡山大学医学部に3年次から編入学しました。20代半ばの春でした。当時の編入の試験は予備校とかもなく120倍とか160倍とかの倍率があり、数日がかりで受験者の人間性を評価する試験などもあり、極めて狭き問だったのでかなり幸運でした。3つの大学から面接力だけで?合格を頂いたので何か強い運を持っているのかもしれません。そう考えると、やっぱり10代、20代に学んだ教育学や研究への思いは、医師になった今も点と点が強く結ばれるようにブレずに繋がっているなと思います。

●どのような学生生活、研修医だったのでしょうか?

 私は医学部時代、救急医療や総合診療や感染症の勉強を好んでしていました。救急の教授に頼み込んで救急車同乗実習を土日に一人でやっていたり、ACLSやJATEC、PALSなどのコースをハワイまで受験しにいたっりなど、とても情熱的に学んでいたと思います。6年生になった頃には、ある財団からハワイ大学に短期留学のチャンスを頂き、臨床推論や医学教育のことなども学びにいきました。やはりここでも、過去に学んだことが全てつながっているように思います。振り返ると、相当ポジティブな意識高い系の学生だったのかもしれません。卒業後は短期間で臨床力をつけたいという思いが強く、当時救急搬送が日本で一番多く、見学時に初期研修医がピカピカに輝いてみえた湘南鎌倉総合病院で研修しました。当時の研修は毎日がハードで辛く、ひたすら眠く、そしてなぜか常に病院に仲間がいてとても楽しかったです。

●総合診療の道にはどのように進まれたのでしょうか?

もともと幅広い臨床スキルを身につけたいと思っていました。当時、総合診療はプログラムすらなかったので、同病院の総合内科で研修し続けました。ERから急性期病棟管理/集中治療、そして退院後に自分で外来フォローするなどの事が経験できました。そして辛い思い出ではありますが、チーフレジデントを経験した期間が圧倒的に成長しました。病院全体から内科系コンサルトを受けつづけ、朝早くから深夜まで勤務する限界突破の日々を送りました、夢中だったから楽しかったのだと思います。

全ての専門診療科(多くは指導医)からちょっとでも内科っぽいと思ったら全てコンサルトをチーフレジデントが受け続けるルールなので相当勉強なります。しかもちゃんと各診療科に専門の指導医がいるので困れば最終的には相談できる環境でした。

実はケースレポート作成時の臨床の勘やセンスは確実にこの時期の経験が判断材料となっています。論文にできる、できない、面白い、面白くないという基準に応用されているのですね。僕がそのチーフレジデント学年時代に経験したことがないような病態や症例は、全てPublishable(論文化可能)という独自ルールを設定し、それに従っています。総合診療系の先生はコンサルトする側に立つことは多いかもしれませんが、逆に二次資料(UpToDate)を武器に若くしてベテラン医師からあらゆる病態や疾患の角度でコンサルトされ続ける側に回ったのがとても大きな学びになっていると思います。

ただ反面とても将来が不安でした。600床規模で13-14000件/年の救急搬送がある超急性期病院で医師になって土日休日もなくストイックに臨床をするような生活でしたので、なんとなく臨床面で飽和した感覚がありました。専門的なことをやった方がいいのでは無いか?早くなんらかの資格的なものをとった方がいいのではないか?このままで自分の描く理想の医師像に近づけるのか??将来の進路に迷いに迷いました。

その時に相談にのってくださったのが勇気を出してメールした徳田安春先生(現:むりぶし沖縄臨床研修センター所属)でした。超がつくほど有名な先生であることを知っていたので、待ち合わせに指定された東京ドームのムーミン谷のパン屋さん(ムーミン人形に囲まれている)で、僕はガチガチに緊張しながら将来の夢や目標を熱心に語りました。

すると徳田先生は嬉しそうに「私の年代はもうメンターです、そしてあなたは私のメンティです、私のように臨床と教育と研究の3つの柱でしっかりと活躍できるようになりさない」と厳しくも暖かい指導を受けました。その時に初めて聞いた”メンター”や”メンティ”という言葉が、僕には何故か恥ずかしくて、うれしくて、とても斬新に響きました。まさに異文化の世界に誘ってもらった感覚がありがたくて、鮮明に記憶に残っています。

Part 2

●東京城東〜バンコク〜島根までの過程が全く見えません。

湘南鎌倉でハードトレーニングをした後は、徳田安春先生の司令で、東京城東病院で、総合内科を立ち上げるためのon the jobトレーングをしました。この時の仲間作りや、診療体制作りの経験は、確実に今につながっています。東京城東病院では志水太郎先生(現獨協医科大学総合診療科教授)と徳田先生と三人で、どうしたらこの小さな129床の病院が日本の総合診療領域の中でリードできるかについて、考えて行動し続けた日々でした。

その次はタイのマヒドン大学への挑戦でした。これは関東の非常勤勤務の当直中に、それまで国内発症が無かったデング熱症例に初めて遭遇し、僕は診断が速やかに行えず、熱帯感染症の学び不足を痛感した事がきっかけでした。Mahidol大学では苦労しましたが、楽しかったです。オーストリア、イタリア、ドイツ、イギリス、ミャンマー、フィリピン、ロシアなど多様な背景を持つ医師が病院にあつまり、お酒を一緒に飲みながら熱帯臨床医学漬けの生活をしていました。その時のクラスメートは今でも一番の友だちです。

皆さんは驚かれるからもしれませんが、タイは一般的臨床能力というか、医学教育のレベルがとても高い国でした。当時、タイにはJCI 1) 認定機関が40近くあり、当時日本は亀田とか聖路加とか湘南鎌倉など数病院だけでしたので、医療レベルの高さに非常に驚いたことを覚えています。ただ経済的には日本ほど恵まれていないために、辺境地では医療資源が限られる中で、医師はもちろん医学生も徹底的に病歴聴取からフィジカル診断学を学び、ベターな医療を目指していたのですね。

この頃に我が国の臨床教育の遅れを察知しました。見学中心になっている臨床実習のデメリット、色々な国の医師と医学教育の会話をする中で東南アジア諸国にも一回り以上遅れてしまっていると確信したのです。このあたりから日本の医学教育をなんとかしたいと強く感じるようなり、多分後に大学教員になることにつながった動機になったと思います。

島根大学医学部へは、寝耳に水でした。ある日、徳田先生から、バンコクにいた私に大事な話があると連絡がありました。これは一大事と、一時的に帰国して12月28日の指定された両国のちゃんこ鍋屋に出向くと、「大きな大学では良かれと思った教育改革でも抵抗が大きく難しいでしょう。でも私も年2回行っている島根であれば、良い医学教育を展開できるかもしれません。島根にいくと良いですよ。先生ならばできますよ」と、島根からGeneral 旋風を起こせという司令を頂きました。正直なところ、大学病院は本当に不安でした。だって、臨床のことしかトレーニングしてきませんでしたから。でも、よくよく考えたら其の時には、すでに徳田先生から臨床・教育・研究の3つがある程度できるようにと個人的に鍛えてもらっていたので、どんな知らない場所でもメンターの期待に必ず答えたいという気持ちがありました。

そして運命の出会いです。3月のバンコクは猛暑ですが、鬼形和道先生(現在、島根大学医学部長)がバンコクまで直接リクルートに来てくださりました。リュックサックに島根の最高級の仁多米を詰めて汗だくで持ってきてくださったのですね。

汗だくでそんな重たい思いをしてわざわざ日本の米と熱い思いを持ってきてくださったことに感銘を受けました。絶対この人はすばらしい人だと確信しました。だって、医学部教育改革や、どうしたら良い医師が育つかとか、本気で話してくれたのですね。僕が直球で我が国の医学部の教育のイケていない点などを無礼千万にドンドン放り込んでも全く動じないで、ちゃんとした返球をくださる方でしたので、安心して島根に移住する決断をしました。

*1) JCI: Joint Commission International 医療の質と患者さんの案税制を国際的に審査する機関

●島根大学医学部での活動

 島根大学では鬼形先生(現医学部長)の下で卒後臨床研修センターに所属して様々な改善活動をしてきました。僕は大学の中で総合診療医としてすべきことは、一人で頑張って臨床をすることではなくて、むしろ医学部全体としてあまりだれもやりたがらないけれど、誰からも喜ばれることをすることが重要だという考えを持っていました。臨床医が患者さんを診断して治療するように、病院全体の問題を診断して治療するような活動をしたいなぁと。優秀な臨床医や指導医は大学病院には山程いますので、僕がそこで無理に展開する必要はあまりなさそうだなぁと。

一番重要な事は志が高い先生達と仲間になることだと思っていまして、実務としては教育系の色々なデータ分析をもとに活動を行ってきました。また幸運なことに島根だけではなく、全国の仲間と日本の総合診療の未来についても検討し活動をしてきましたし、診断エラーの研究を行いながら内科学会専門医部会などでも活動させて頂くなど、島根大学にきたことで活躍の幅が劇的に拡大しました。

これは大学病院で得られる大きなメリットだったと思います。結果的には仲間のみんなと頑張ってきた集大成として2022年4月から病院総合診療専門医プログラムが始まることが決まりましたので、本当に学内・外のとても良い仲間に恵まれて幸せな時間を過ごしてきたと思います。

島根大学で迎えた2020年4月は激動でした。当時はハーバード大学医学部大学院へ留学が決まっておりボストンにいく準備を完璧にしていたのですが、なんとCOVID-19のパンデミックで全ての授業がオンラインで実施することに入学後に決まりました。なんとなくゆるく楽しそうな留学生活を思い描いていて自分には寝耳に水でしたが、パンデミック状況下では文句も言えません。そんなバカな!?と思いながら、いや待てよ・・、どうせ現地に住んでも結局オンライン授業に移行するならば、最低でも30万円/月の値段を超える超高額家賃を払ってまで移住するよりは、大学で昼間に働かせてもらいながら、夜はフルタイム大学院生として深夜2時まで毎日授業受ければいいではないかと気づきました。

これは、人生最初で最後の文字通りの”命”をかけた戦いになりました。こういう肉体的に限界に挑戦している時の時間の使い方は研ぎ澄まされるようで、結果的に逆に1年で数多くの論文を発表できましたし、センターの立ち上げ業務も効率的に行えました。さらにハーバードの大学院も結果的に優秀な成績で卒業生代表にも選ばれたので僕のあの時の無謀な決断は多分間違ってはいなかったかなと思います(笑)。

ハーバード大学医学部大学院の歴史でも入学式~授業~卒業式にも現地に一歩も踏み入れず卒業したのは人類初の学年として新しいモデルになったのは間違いないと自負しています。

このように振り返ると結局、やっぱり自分の上司である鬼形先生や周囲の方のサポート、何より家族の支えがなければ、倒れてもおかしくない不眠生活でしたので本当に感謝しています。振り返って健康がやっぱり一番ですね。今が一番幸せです。

●島根大学医学部 総合診療医センター始動!

さて前述したとおり2020年の年末頃から厚生労働省の総合的な診療能力を持つ医師養成推進事業に奮闘開始しました。自分には個人レベルで行いたい大きな夢がいくつもありましたので、リーダー職を引き受けるのをどうしようか迷いましたが、今やらないと島根全体に迷惑がかかると考え、体力が続くギリギリのところで精一杯引き受けて推進させる覚悟を決めました。この時に、5年間のこれまでの総合診療育成に関する根本原因分析やステークホルダー分析などの戦略作成がとても役に立ちました。

島根にはすばらしい家庭医の先生達、総合診療医、総合内科、病院総合診療医、地域医療で奮闘する先生など、General という括りの中で人材が非常に豊富であると思っていました。それでも、島根には病院の壁を越えた縦・横・斜めのコラボレーションが少なく、実に勿体ない。それは全国100以上の病院で非常勤医師として働き、他県の様々な医療実情を知っていたからこそ直感的にすぐに把握することができて、相対的に視野と視座と視点を変えて比較することができたことが大きいです。

大学の先生はやはり大学を中心に物事を考える事が多く、自治医大出身の先生は自治医大の中で交流されることが多いですし、また地域の病院は自分たちの地域の病院や診療科をまず何より優先に考える傾向がありますので、外からふらっと来た流れ者としては、互いに発展できる連携があれば上手くいくだろうと考えていました。

そして、総合診療の島根の「風土」というものを考えた時に、自分のような旅人的な人間は、まさに総合診療の「風」であり、その島根の大地に根をはやした「土」リーダーにはなれないと分かっていましたので、誰が一番「風土」を作れるか検索しました。これは簡単で、もう20年以上も島前病院の院長をされてきた白石吉彦先生以外には考えられませんでした。センター長就任を必死で抵抗する白石先生に対して、1600円の寿司ランチを武器に強引に白石先生を口説き落とし、2021年3月からしまね総合診療センターを立ち上げる事ができました。

白石先生は我が国を代表する理想的な総合診療医であり、カリスマ性と人間的魅力が日本一(と僕は思う)のスーパースターであり、島根で風と土の両方を創ることができる唯一の方だとおもっています。白石先生が心の中心となってくれることでバラバラであった島根の総合診療医が一気につながり出しました。まさに改革はオセロゲームであるということを示したような、環境がひっくり返る瞬間でした。そして、現在は役職や年齢や出身大学を問わずヒエラルキーもないTeal型組織NEURAL GP Networkの形成を開始することができました。

これは総合診療医(GP)が有機的につながり増殖し、お互いが個別の現場リーダーとして、互いに成長し、コラボレーションを行うネットワークの構築です。総合診療医を育てる世界初の取り組みとして、次々と色々な事を現在進行系で仕掛けていっています。

●総合診療センターの役割は何でしょうか?

このセンターのミッションとビジョンはこのホームページでもあるように、島根県各地の総合診療医をつなぎ、オンライン・オフラインを問わない医学生と若手医師の学びサポート、地域への派遣、研究支援を行い、自律成長可能な総合診療医育成の土壌作りをしています。ホームページをぜひ一度ご覧いただければ嬉しいです。

最近は日本で最も先進的な活動だという実感を日々得ることができるために、6年目になったいま、島根県に来て本当によかったと心から感じる日々を過ごしています。

●3本目の柱である「研究」について知りたいです、どのような学び方をしてこられましたか?

 医師4年目に初めて国際学会(Diagnostic Error in Medicine, ジョン・ホプキンス大学)で発表しました。そこで僕は、これからは絶対に診断エラー学が日本で浸透するのだろうと確信しました。なぜならば当時我々を除いて、PubMedやGoogle Scholarでも論文を我が国から発表していなかったので、絶対に日本での研究実施が必要だと思ったのですね。しかし、研究は何からやったらよいか手法が全くわからない。研究は開始するのはなんとなく簡単そうに見えるのですが、実は手術をしたり、内視鏡の技術を習得するよりも遥かに時間がかかり、とても難しい知的作業であることがわかっていますし、実際に僕もそう思います。

どうしようか悩み困った挙げ句に、現医学部長にお願いして2018年からハーバード大学医学部GCSRT 3)に在籍し、各国の研究分野のリーダーたちとディスカッションをしながら研究手法について学ばせてもらいました。これが僕の経験した日本の博士課程で学びの10倍以上は深く、そして難しく、研究の深淵さを知ることができたので素晴らしい経験でした。

その後は前述したハーバード大学医学部大学院Master of Healthcare Quality and Safety(修士過程)に進み、日本でいう医療系ビジネススクールみたいな内容を学び先日、卒業することができました。ここでの学びは筆舌に尽くしがたい分量であり、大きな変革を伴ったものですのでいつの日かまた。実はこのNEURAL GP networkの開始に至るまでの分析や戦略や実際の行動や交渉は全てここで学んでいますので、企業秘密です。

3) GCSRT: Global Clinical Scholars Research Training

  説明はこちら:https://blog.goo.ne.jp/wataritari/e/6df46480f53f041de7e38e46b0868d2e

●人生の経歴の中で一番のターニングポイントは

 ターニングポイントはいっぱいあるのですが、一番記憶に残っているのは後期研修医のときに、徳田安春先生の代役で、講演会で3時間レクチャーをした時ですね。準備期間はなんと、たった1日でした。高額のお金を払って来てくださった方達に後期研修医の自分なんかで本当に申し訳ないのと、師匠の代役を無名の若輩ものが担うことへのあの時の罪悪感は忘れられません。どうやったら笑いを取れるか、どうしたら参加者が満足してもらえるか、翌日から活用してもらえるかなどを一生懸命準備しました。結果的には、全国的に超有名な先生方よりもアンケート結果が高評価であった事を教えて頂いて、自分は教育活動が本当に向いているのではないかと認識(今思えば勘違い?)した記憶があります。そして、人に教えるために準備した知識や技術は本当に忘れないので、教育活動をし続けるとドンドン引き出しが増えていきました。徳田先生もどうやらその後から、一目置いてくださったのか?とても熱心にあり得ない厳しい指導をしてくださることが多くなり、これは本当にターニングポイントになったと思います。

もう一つのすばらしい出会いは、兄弟子にあたる志水太郎先生との奇跡的なERでの共演ですね。なぜか太郎先生は僕が後期研修で院外に行く先に当直でこられることがあり、その数回の遭遇で医師人生で大切にしているものを共有して分かりあった気がします。その後は、東京城東病院で勤務開始した後にハワイから帰国してきてくださり、狭い小部屋で僕らは毎日総合診療の未来や、僕らの夢を語り続けた事を覚えています。今、マネージメントに携わるものとして、リーダーとしての太郎先生と過ごした時間と、後姿から学んだものは無限の価値があると思います。まさにセレンディピティというものだと思います。

振り返ってみると、このように出会った全ての人に影響をうけて、育てて頂いて良い方向に導いてもらったと思います。本当に感謝しかありません。ご恩を返すためにも、できるだけ多くの若い先生達が島根の総合診療を学ぶ事ができるように今後も情熱を持ってがんばります。

取材者より[遠藤]

 謎多き男、和足先生と言われますが、それはこの多岐に渡る活動のためですね。一人三役はこなす和足先生。1年ごとに変わっていくものと思われます。これからもご活躍期待しております。

略歴

東京生まれ/長崎県出身

2005年神戸大学大学院自然科学研究科修了
2009年岡山大学医学部卒業 (学士編入学)

2011年湘南鎌倉総合病院 初期研修医修了

2013年 同病院 総合内科チーフレジデント

2014年東京城東病院 総合内科 副チーフ

2015年Mahidol University Graduate school of Clinical Tropical Medicine (MCTM:臨床熱帯医学修士号)

2016年島根大学医学部附属病院 卒後臨床研修センター 助教

2016年Harvard Medical School, Introduction Clinical Research Training修了

2019年Harvard Medical School, Global Clinical Scholar Research Training Program修了

2021年 島根大学医学部附属病院 総合診療医センター准教授 副センター長

2021年Harvard Medical School, Master of Healthcare Quality and Safety修了(MHQS:医療の質・安全学修士号)